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目 次 ]      月刊・お好み書き 1997年4月1日号






(インターネット版匿名,40過ぎ,○×県)

 昨年の7月号で『お好みカウンター席に「アメリカで仕事をみつけたから行ってくる。ロス支局を開くワ」というお便りを寄せてくれたF.S.さん。
 実は渡米早々に患っていた病気がぶりかえし帰国していました。そのFさんから再び便りが届きました。題して『ある精神病患者からの手紙』です。あまりに長いので、私の判断で、一部カットさせていただいたことをご了承下さい。また文中、プロレスラーやプロレス団体、プロ格闘家の固有名詞が出てきますが、意味が通じると思われるものは、そのまま掲載しました。
(大西 純)



 前略

 大西さん、長い間、連絡しなくて悪かった。すいません。やっぱり一年間もウツ病で自宅にいたし、やれ米国に行ったはいいが、突然1日15時間労働を強いられたのではからだがもたない。一発でノックダウンだ。

 血液検査を受けたところ、あのポーゴ先生を引退に追いやった脱水症状とタンパク質とコレステロールの激減という不思議な数値が出た。とにかくあの時はヨレヨレだったよ。みじめだな、あれだけ人に言っといて。

 でも、あんなもんだろう。頭で描いたように何でもうまくいくはずはないし、あのほうがむしろ、人為的でない分自然だ。元々アメリカンドリームを追い求めるタイプでもないし、金銭には一切魅力を感じたことのない人間だからああなって当然。ダメ、とにかくダメでした。そういうことだ。

 大西さんが俺から聞きたい一番面白そうなテーマは、やはりウツ病だろう。だから、子供の頃からの病歴を順を追ってたどってみると…。

 まず幼稚園の時、ある朝、突然足に力が入らなくなり立てなくなった。入院して、脊髄の体液を抜き別の液体を注射した。この間、約1時間、注射の針はささりっ放しなのだが、動くと傷がつくと言われ、動くなと言われたのだが、そんなの我慢できるはずがないだろう。ワァーワァー泣いて、できるだけ、動かさないように努めたが、この時の注射が元で、神経を痛めたのは確かだと思う。立てなくなった理由はわからなかった。

 次に肝臓病。発症は小学校五年の頃、中二の時は重病で、ほとんど1年間学校を休んだよ。

 27歳の時も、外国で完全な肝炎と診断され、70キロあった体重が一週間で50キロに激減した。帰国してから仕事を始めたはいいが、ものすごい重労働で途端に眠れなくなった。眼のまわりもピリピリけいれんするので、医者に行ったら即「自律神経失調症です」と言われた。

 二回目の大きな奴は、32歳の時、山を登っている時だったが、左半身から全く汗が出ないのである。医者に行ってみると、左眼の瞳孔が開き、とてつもなくからだがダルい。その脳神経外科医が言うには、眼の奥の視床下部に自律神経が集中しており、その部分への血行が悪いのでは、ということだった。左腕と右碗の血圧にしても50も開きがあること自体、完全に異状である。

 又、同時に椎間板ヘルニアを併発していることが判明し(これも、レントゲン写真の結果)医師が「理論上、歩けるはずがないのに、あなた、ここへひとりで来たんですか?」と首をひねったほど背骨がヒン曲がっていた。「将来は車イス生活という最悪の状態も覚悟しておいて下さい。」と言われたが、今は何とか歩ける。でも、あの当時は右の太モモと左の太モモで実に7センチも太さがちがったのだ。強烈な体力の低下と仕事の昼夜交替が重なり、日曜日などはほとんど床につきっ放しの状態となっていた。又、これも自律神経系の病気だがメニエル病という追いうちをかけられた。主な症状はめまいと平衡感覚の喪失と耳鳴り。

 そんなおり、当時掛かっていた医師がある日、こんなことを唐突に質問した。「今朝、何を食べたか思い出せますか?」。俺は答えられなかった。今日、何を食べたのか憶えていない。医師は簡単な質問を二、三くり返した。何も答えられない。

 「仮面ウツ病ですよ。」

 医師の診断にショックは感じなかった。それほど症状は悪化しており、外からの刺激に何も感じない。一ヶ月会社を休んだが、頭がカラッポ状態なので、五秒以上の集中力がない。テレビのくだらない番組で五秒以上のギャグだと話についていけない。又、時間の感覚というものがない。例をあげると、二階で眠っているので父親が「ごはんだ。」と起こしにくる。ごはんを食べ終わり、又、二階で床につくと、どういうわけか、ものの二、三十分もしないうちに、父親が「ごはんだ」と起こしにくる。実はこの間、実に12時間も経過しているのだ。又、性器が肉体の中に全て隠れてしまうのだ。全てが「あなたは精神分裂病の傾向がある」。

 結局、ウツ病、てんかん、分裂病、これで晴れて三大精神病全て羅患ということになる。

 ウツ病の続きだが、これは大西さんには悪いんだが、大したドラマチックなものがない。というのは、頭の回転が鈍っているので、自発的に何かをすることもないし、入院した精神病院のほうも、毎日退屈そのもの。一日中バトラーツの前座試合を観ているという感じだ。

 他人の入院患者も一見すると普通人とかわらないし、「お互い、この人、どこがおかしくて入院しているのかな」という感じだった。ただ、共通していたのは、みんな眠る能力がないということだったね。

 てんかんのほうは、ブッ倒れてケイレンを起こしているのはさもつらそうだが、俺の場合、その大発作の前後五分間の記憶が全くない。ただ、まわりの風景がみんなスローモーションに見えるんだ。そして、数秒後眼の前がまっ暗になった。その数分後、失神したわけだが、意識が回復するにつれてマッド・ドック・バッションが自分の血をなめている時のように独特のエクスタシーを感じるのだ。そうてんかんは気持ちいい!

 これはドストエフスキーも証言している。とにかく、ええ気持ちなのだ。これは他の入院患者も同様のことを言っている。

 又、これは、てんかん専門医に聞いた話だが、「十秒だけ気絶する。」というケースがあるそうで、フッと気づくと眼の前の風景がかわっているという体験も俺にはよくあった。歩きながら十秒だけ気絶しているということなのだそうだ。あお、恐ろし。

 では、今までに挙げ述べつらった病気を通じて、病というものを通して、人間はある種の原則で生きているのではないかという考えが頭にもたげつつあるので順不同で列挙してみたい。

その1
医者は思考してはいけない。

 単に学校で習った丸暗記と過去の症例とMRIや血圧測定に代表されるような科学的客観的判断とウヌボレで己を満パイにしておく。だから、彼らは見たこともない症例では、患者がいくら苦痛を訴えても、「病気ではない。」或いは「気のせいですよ。」のヒトコトで片づけてしまう。とにかく考えないことが彼らのプライドを支える。考えることといえば、開業医ならばせいぜい25年ローンの月々のやりくりのことだけで目いっぱいである。

その2
医者は他人を思いやってはいけない。

 科学というモノサシを使っているがために誠に人体を即物的にしか取り扱っていない。患者は彼らにとって、レントゲンやリハビリ器を働かせるための媒体に過ぎない。MRI一台で六億円もする。患者は、その機械の設備費を回収するためのうちでの小槌である。又、科学的客観的設備、検査の上で「シロ」と判明した場合、いくら患者が苦痛を訴えても、まともにとりあってくれるような代物ではない。苦痛を訴える患者の血のにじむようなセリフよりも、検査結果の無機的な数字のほうを信頼している。そのほうが、後々仮に不適切な処置をしていたことがわかったとしても、いざという時、機械に責任を転嫁できるからである。本人の苦しそうな表情は極力見ないで血液検査の客観的数値だけを見ている。患者との主観的交流は疲れるので一切しない。患者と同じ次元でかまえようなどという謙虚な姿勢はサラサラない

その3
医者は次の三語を死んでも口にしてはならない。
 「知りません」
 「わかりません」
 「できません」

 以上の三語は前記二原則の暗黙の了解を言語化したものである。

 しかし、この三語を言わないがために、患者と医師とのまるで売春婦とヒモのようなダラダラした関係が続くことになる。

 「わからない。」或いは「私には無理です。」とはっきりいってくれれば、患者のほうでもその後の進路を方向づけられるではないか。結果がかんばしくないから、直々顔を出すと、モロにイヤな表情を見せるバカ正直な医者もいる。彼らは慢性病患者が嫌いなのである。

 「ナチスドイツと障害者安楽死計画」。この本、大西さん読んだ? これはナチスがゲルマン民族が世界最優秀人種、その中でも優秀な奴だけ残しておこうという発想のもと、ドイツ医学界も総力をあげてバックアップした計画だ。知的肉体的ハンデを持った奴は全部消すのだ。別にナチスだからというわけじゃない。ダーウィンの「進化論」だとかメンデルの優性遺伝の法則のように、科学は割り切って、無言のうちに体の悪い奴らをブチのめしている。

 日本だって例外じゃあない。「優性保護法」というりっぱな不良遺伝子抹殺法がある。まるで聖職か何かとカン違いしているようだが、医学とは人間のエゴを最も狡猾、無神経に容認、正当化させるための自己欺瞞帝王学といえる。

 ハンセン病患者の「証言 日本人の過ち」の中にも次のような記述がある。ハンセン病患者が痛みを訴えても、「検査の結果、何の異常もない。あなたは要するに、この病院にまだ入院していたいから、そんなことを(要するにウソを)言うんでしょう。」という医師の返事が返ってきたという。

 又、あるフォーラムの席上、精神科医が次のような目からウロコが落ちるようなスバラシイアリガタイ事例をあげてくれた。

 ある日、その医師のもとへ母親連れで子供が診察に訪れた。母親のセリフによると、最初、子供が足が痛いというので外科医を訪れたところ、外科医がいうには、足は傷んでいない。心の病から足が痛く感じる。心身症だから精神科をすすめられたのだという。

 その精神科医は試しに「どこが痛いの?」と足を見ると、あにはからんや、予想に反して、足の裏が大きくケガしているではないか。

 「どうして、このことを、その(外科医の)お医者さんに言わなかったの?」と精神科医が尋ねると、子供は、

 「まわりには看護婦さんや、お母ちゃんもいるやろ。そんな(診断)まちごうてるていうたら、お医者さん恥かくやろ。プライドに傷つくやろ。言わへんかったんや」

 「わかりました」

 精神科医はエリを正して薬をつけ、包帯を巻き、手当てをしたのだという。まるで確定申告をする時の正装のブッチャーのような気まじめさを持って。

 この間、外科医も看護婦も、実の母親さえもこの一目でわかるケガを見ようともしていないのだ。しかし、これは何も例外的な不思議な現象というわけではない。小賢しく、表面だけはいつも体裁よく、誰からも好かれるようにアカルクふるまい、銀座の年増のホステスよろしくワケ知り顔という厚化粧をすることが現代紳士淑女の身だしなみ、エチケットの一つさえなっている。要するに現代でしっかりした大人というのは、他人からどう見られているかという、自分のことしか考えていない人間をいうのだから、あの気づかいのやさしい子供の親切心に誰もが気づかないほうが当たり前なのだ。鈍感なほうが幸福はラクに手に入る。考えないことが世渡りの通行手形となる。

 その精神科医によると、このような目をおおいたくなるようなアホらしい事例は山ほどあるという。

その4
病気は早期発見、早期治療してはならない。

 とことん落ちるところまで落ちて、徹底的に悪くなるほうがよい。中途半端に克服してしまうと変な自信がついて、己を錯覚してしまう。

 上田馬之介が交通事故により車イス生活者になったという報を聞いて、シンがわざわざカナダから見舞いに来ただろう。その時、上田がシンミリとした口調でこう述べたそうだ。

 「俺も多くの人間を病院送りにしたが、こうやって自分自身がそういう身になってみると、あの人たちの気持ちがよくわかるよ。」

 あの全身流血家、残虐非道の二匹のケダモノにこのような背筋の凍りつくような殊勝なことを吐かせてくれるのは、病気さん、病(やまい)さんのおかげなのだ。かくも神通力のあるものなのだ。

 あっ、それから、アルフォンス・デーケン教授が「タナトロジー(死の学問)」をある私立学校で行っており、文庫にもなっているので読んだところ「自殺なんて自分が与えてもらった命を自分で捨ててしまうなんてこんなバカなことをするもんじゃないですよ」という一文があり、俺もこの文章を読んだ当時数年前は「ああ全くだ。」というアホ丸出しの条件反射しか示せなかったが今はちがう。つまらない理由で人間は簡単に自殺してしまう。幻覚や幻聴も実に簡単に体験してしまう。

 ある警察官の例なのだが、彼は絵に画いたような生真面目で謹厳実直な人柄で、約束というものを破ったことがない。ところが、この人は自分のピストルを保管室に置き忘れてあわてて捜したところ、自分のざぶとんの上に置いてあるのを発見したのだという。ここまではいい。ところが生来の性格が災いしてその日以来、ざぶとんやソファーに腰かけられなくなった。当然、罪悪感や自責の念に責めさいなまれ、ついには自殺をはかるまでになる。これは本当にあった事件だ。彼は決して異状ではない。まともな小市民面をして道を歩いているデーケンや俺たちのほうが、よっぽど不純で愚鈍なのではないだろうか。でも、そのほうが常識人として通るので、少しでも体が悪くなるとすぐに「健康」に逃げ込んでしまう。

 つくづく常識とはお気の毒な信仰だと思うよ。

その5
何でも言語化して決めつけてしまうと、瞬時に「わかった」という錯覚にとらわれ、人間は思考を停止してしまう。本質を絶対問おうとしない。

 とある国では、一番高給取りの国家公務員が二手に分かれて官僚という名の他人の書いたシナリオを、こともあろうに自分が書いたかのように読みあげ、時には冷静に、時には激怒を装いながら、コトバのプロレスに終始して高い給料をもらっている。中には、ゴーゴー高いいびきで爆睡している奴もいる。目をしっかり見開いて注意深く聞いているようなフリをしている連中も、実は火曜から金曜まで形だけ出勤しているだけで、あとは地元で金曜の夜から月曜まで毎週行われる次期公務員昇格試験合格の根回しのことで頭がいっぱいだ。

 しかも、信じられぬ話だが、これらのマンガは「国会中継」というタイトルで毎日ライブでテレビ放映されている。それに輪をかけて、そこのごりっぱな国民(有権者センセイ)は、このスジガキの読み合いを決して八百長などとは思っていない。民主主義だ、法治国家だ、自由主義国だと、あらかじめパブロフの犬、つまりお手を習った犬よろしく、そういうスバラシイ世界、人間だと思い込んでいらっしゃる。

 彼らの判断は、タダシイそうだ。

 政治 イコール まっとう

 プロレス イコール 八百長

 健康 イコール 良い

 病気(不健康) イコール 悪い  

 書くのもアホらしくなった、勝手にやってくれ。

その6
弱い者から死んでいくのが本当の社会である。

 二十世紀末の、少なくとも先進国では、日がな一日中、いや一生中、その最期の一瞬まで、あくせくあくせく健康音頭をおどらせ続けさせられている。

 「あんた、そんなに健康で疲れないですか?」とそっと肩を叩いて憩ませてやりたい奴が、世界中ウヨウヨしている。

 自然界では、或る者は傷つき或る者は病に倒れ、或る者はケガをし、又、他の種のエサとして食われ、又、老齢により死を迎えることになる。

 弱い者から順番に死ぬ。これが当たり前なのだ。病気を科学的になおしてもらおうと考えること自体、H・Gウェルズではないが、火星人への第一歩だ。

 俺は恥ずかしい。医学は自然の摂理に反しているとわかっていながら、全然大したこともない、尊くもない命を後生大事にせんがために、まるで地獄をのたうちまわる餓鬼のようにクモの糸にすがりつくかのように医者通いをしている毎日だ。

 弱い者、年老いた者を延命させること自体、不自然だ。死のモラトリアムなんかをやって、「俺はがんばった。」とか「気力できりぬけました。」などと虚勢をはって、まだヌケヌケ生きさらしているは人間サマの体たらくである。あのマザー・テレサだって去年、危篤状態だった時「私を死なせて下さい。先に死んでいった貧しい人々のもとへ早く私も行かして下さい」と懇願したではないか。

 人間は死ぬべき時に、死ぬべきだ。彼女の言ったことは正しいと想うよ。大西さんはどう想いますか?

その7
人のイタミはわからない。

 昨今のジャーナリズムでは、「他人の痛みを自分のものとして受けとめることができる人が少なくなった」とカッコつけたことをオオゲサになっていっているが、その言葉は、実現不可能である。少なくとも俺の心の中では。

 単純な例を示そう。

 俺がまだ、四才か五才の頃、大人が「頭が痛い。」とか「腰が痛い。」とかいっていたのをよく耳にしたが俺には何のことかサッパリわからなかったな。実感できなかったし、感情移入しようとしてもできなかった。

 以上だ。別に他人が読んで面白いもんでもないだろうが、もしもこれが面白かったら、もちろん「お好み書き」にのせてもらってけっこうだよ。「ある精神病患者からの手紙」なんてタイトルでどうだ。米国へ行って一ヶ月もしないうちにケツを割って帰ってきたことも加えて、もちろん実名で書いてもらったらいいからね。ガンであろうがブサイクであろうが、エイズであろうが、キチガイであろうがそれを他人が「ああ、生きてて良かった! 俺、こんな奴よりマシやから」などと解釈しようが、理解しようが誤解しようが賞賛しようが軽蔑しようが、なめくさろうが、全く無視にも値しないとゴミ扱いしようが、そんなことは俺の知ったことじゃねえという感じだ。

 ところで、又、病気になって精神病院入院ということになったら、今度はすぐ報告するからな! アツアツのできたてのキチガイへのインタビューも面白いんじゃないの。何事も体験だしね。

 キチガイといえば、放送禁止用語なんだそうだな。じゃあ、キチガイの俺が、キチガイの俺を、キチガイやキチガイといったら、キチガイ扱いされてキチガイ罪でキチガイ病院付刑務所に収監されるっていうの? 言葉獲りを一時ウンヌンいってた小林よしのりなんかどう思ってるの?




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